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エンジンチューナーがオイルを開発するまで VOL.2
NUTEC Japan社長の鳩谷和春のバックグラウンドストリー第2弾。 これは、ノンフィクションです。 エンジンチューナーがオイルを開発するまで その2 鳩谷が開発に参画した2T-G=100Eは、レースとラリーの両カテゴリーで世界的に大成功したレーシングエンジンだ。コンパクトでパワフル。 国際フォーミュラの底辺に位置するF3にイタリアのノヴァモーターが供給先となって世界中のF3用パワーユニットとして活躍した。 しかし、1970年代の第一次、第二次オイルショックで自動車メーカーが相次いでモータースポーツから撤退。経済の動向に特に敏感なトヨタは、真っ先にモータースポーツ界から手を引いた。 しかし、鳩谷のエンジニア魂は、エンジンの開発の手を止めなかった。 1600ccのツインカムエンジン、18R-Gをベースにしたレーシングエンジン開発にほんの数名のスタッフと共に着手。 コードネーム152Eは、シリンダーブロック以外全てを新設計、1990ccに排気量をアップ。 2バルブを4バルブとし、日本電装(現:デンソー)製フューエルインジェクションを装着した。 そのエンジンは、ベースエンジンの140psの何と倍以上約300psの出力を発生した。 オイルショックの闇から抜け出た瞬間にセリカに搭載されてヨーロッパではラリー、アメリカではIMSAシリーズで活躍した。 1982年にトヨタ自工と自販が合弁。 トヨタ自動車が誕生したときに鳩谷は、トヨタ・レーシング・デベロップメント(TRD)に所属、シャシーとエンジンの企画、開発を司るポジションにあった。 ターボエンジンの開発では、3T-GUEをベースに4T-GUEを開発、3代目のセリカに搭載して世界ラリー選手権シリーズ(WRC)に参戦。 1984年に初出場となった第4戦サファリラリーで総合優勝、ターボエンジン搭載車の初優勝という快挙を打ち立てた。 4T-GEUは、国内では新時代の耐久レースカテゴリー、グループCカーのパワーユニットとしても活躍。 鳩谷が携わったエンジンの多くは、ジャンルを問わず好成績を上げた。 20世紀の終わりを目前にして鳩谷は、TRDを退職したが、氏の最後の作品と言えるレーシングマシンがTS010だ。 デザイナーは、イギリス人のT.トニーサウスゲートとされているが、彼は、コンサルタントであり、実際の図面は鳩谷以下TRDのスタッフが引いている。 まして、サウスゲートにとってはエンジンの開発は、領域外だった。 世界スポーツカー選手権に出場した同マシンは、1992年の開幕戦(イタリア・モンツァ)で優勝、第3戦ルマン24時間で2位の成果を残している。 時代の流れに伴ってコンペティションレベルが加速度的にアップし、エンジンとシャシーにかかるストレスももの凄く苛酷になった。 その状況下でオイルが欠くべからざる存在であり、オイルメーカーとのやり取りの中で、鳩谷は自分が理想とするオイル開発のアイデア、ノウハウを蓄積していた。
エンジンチューナーがオイルを開発するまで VOL.2
NUTEC Japan社長の鳩谷和春のバックグラウンドストリー第2弾。 これは、ノンフィクションです。 エンジンチューナーがオイルを開発するまで その2 鳩谷が開発に参画した2T-G=100Eは、レースとラリーの両カテゴリーで世界的に大成功したレーシングエンジンだ。コンパクトでパワフル。 国際フォーミュラの底辺に位置するF3にイタリアのノヴァモーターが供給先となって世界中のF3用パワーユニットとして活躍した。 しかし、1970年代の第一次、第二次オイルショックで自動車メーカーが相次いでモータースポーツから撤退。経済の動向に特に敏感なトヨタは、真っ先にモータースポーツ界から手を引いた。 しかし、鳩谷のエンジニア魂は、エンジンの開発の手を止めなかった。 1600ccのツインカムエンジン、18R-Gをベースにしたレーシングエンジン開発にほんの数名のスタッフと共に着手。 コードネーム152Eは、シリンダーブロック以外全てを新設計、1990ccに排気量をアップ。 2バルブを4バルブとし、日本電装(現:デンソー)製フューエルインジェクションを装着した。 そのエンジンは、ベースエンジンの140psの何と倍以上約300psの出力を発生した。 オイルショックの闇から抜け出た瞬間にセリカに搭載されてヨーロッパではラリー、アメリカではIMSAシリーズで活躍した。 1982年にトヨタ自工と自販が合弁。 トヨタ自動車が誕生したときに鳩谷は、トヨタ・レーシング・デベロップメント(TRD)に所属、シャシーとエンジンの企画、開発を司るポジションにあった。 ターボエンジンの開発では、3T-GUEをベースに4T-GUEを開発、3代目のセリカに搭載して世界ラリー選手権シリーズ(WRC)に参戦。 1984年に初出場となった第4戦サファリラリーで総合優勝、ターボエンジン搭載車の初優勝という快挙を打ち立てた。 4T-GEUは、国内では新時代の耐久レースカテゴリー、グループCカーのパワーユニットとしても活躍。 鳩谷が携わったエンジンの多くは、ジャンルを問わず好成績を上げた。 20世紀の終わりを目前にして鳩谷は、TRDを退職したが、氏の最後の作品と言えるレーシングマシンがTS010だ。 デザイナーは、イギリス人のT.トニーサウスゲートとされているが、彼は、コンサルタントであり、実際の図面は鳩谷以下TRDのスタッフが引いている。 まして、サウスゲートにとってはエンジンの開発は、領域外だった。 世界スポーツカー選手権に出場した同マシンは、1992年の開幕戦(イタリア・モンツァ)で優勝、第3戦ルマン24時間で2位の成果を残している。 時代の流れに伴ってコンペティションレベルが加速度的にアップし、エンジンとシャシーにかかるストレスももの凄く苛酷になった。 その状況下でオイルが欠くべからざる存在であり、オイルメーカーとのやり取りの中で、鳩谷は自分が理想とするオイル開発のアイデア、ノウハウを蓄積していた。

エンジンチューナーがオイルを開発するまで VOL.1
これはあるオイルメーカーのお話しです。 オイルメーカーであるNUTECはどのようにして誕生したのか? NUTECは他のオイルと何が違うのか。 それをご理解いただくために、まずはNUTECの生みの親であるNUTEC Japan社長の鳩谷和春のことから始めます。 これは、ノンフィクションです。 エンジンチューナーがオイルを開発するまで 1960年代、鳩谷は、第1期生として学んだ国立東京工業高等専門学校で卒業研究としてエンジン設計を選択した。 卒業後、就職したのはトヨタ自販トヨペットサービスセンター・特殊開発部。 当時、トヨタはトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の二社によって構成されていた。 現在は、合弁してトヨタ自動車となっている。 学生時代からモータースポーツ、クルマとバイクが大好きであった氏にとっては、とても自然で最高の就職先だった。 市販車エンジンのチューニングから始め、競技用のエンジンではトヨタ1600GTの<9R>のチューニングに携わったのが最初だった。 年間に100基以上のペースでチューニングし、カム、ピストン、ポートの形状に至るまで独自のアイデアを盛り込み性能を向上させ、経験を積んだ。 1970年代にモータースポーツで世界的に名機となった2T-Gの競技用コードネーム100Eの開発に参加。 そのトヨタ自工とヤマハ発動機の共同開発グループ(TOYOTA2000GTの開発)に加わった鳩谷のアイデアがカムやピストン、その他の部品にも採用された。 この頃にはエンジンのみならず、車両の開発にも携わることとなる。 やがて鳩谷のもとに出向辞令が出た。 それは、トヨタが世界選手権ラリーシリーズに挑戦した初代セリカ1600GTの開発メンバーとしてトヨタ自工技術部へというものだった。 用意されていたのは<技術員>のポジション。 汚れるのも厭わず、若きメカニックの時代と同じように自ら手を下すこともあったが、競技車両開発を統轄する<エンジニア>としてのキャリアがこの時スタートした。 その頃、機械的に性能向上させるだけでなく、それを補い、なおかつそれ自体の性能を最大限に引き出すことが出来るオイルの存在、性能が鳩谷には気になり始めていた。
エンジンチューナーがオイルを開発するまで VOL.1
これはあるオイルメーカーのお話しです。 オイルメーカーであるNUTECはどのようにして誕生したのか? NUTECは他のオイルと何が違うのか。 それをご理解いただくために、まずはNUTECの生みの親であるNUTEC Japan社長の鳩谷和春のことから始めます。 これは、ノンフィクションです。 エンジンチューナーがオイルを開発するまで 1960年代、鳩谷は、第1期生として学んだ国立東京工業高等専門学校で卒業研究としてエンジン設計を選択した。 卒業後、就職したのはトヨタ自販トヨペットサービスセンター・特殊開発部。 当時、トヨタはトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の二社によって構成されていた。 現在は、合弁してトヨタ自動車となっている。 学生時代からモータースポーツ、クルマとバイクが大好きであった氏にとっては、とても自然で最高の就職先だった。 市販車エンジンのチューニングから始め、競技用のエンジンではトヨタ1600GTの<9R>のチューニングに携わったのが最初だった。 年間に100基以上のペースでチューニングし、カム、ピストン、ポートの形状に至るまで独自のアイデアを盛り込み性能を向上させ、経験を積んだ。 1970年代にモータースポーツで世界的に名機となった2T-Gの競技用コードネーム100Eの開発に参加。 そのトヨタ自工とヤマハ発動機の共同開発グループ(TOYOTA2000GTの開発)に加わった鳩谷のアイデアがカムやピストン、その他の部品にも採用された。 この頃にはエンジンのみならず、車両の開発にも携わることとなる。 やがて鳩谷のもとに出向辞令が出た。 それは、トヨタが世界選手権ラリーシリーズに挑戦した初代セリカ1600GTの開発メンバーとしてトヨタ自工技術部へというものだった。 用意されていたのは<技術員>のポジション。 汚れるのも厭わず、若きメカニックの時代と同じように自ら手を下すこともあったが、競技車両開発を統轄する<エンジニア>としてのキャリアがこの時スタートした。 その頃、機械的に性能向上させるだけでなく、それを補い、なおかつそれ自体の性能を最大限に引き出すことが出来るオイルの存在、性能が鳩谷には気になり始めていた。